BOØWY 解散についての独自解説【1987年12月24日】

独自解説

こんばんは、まんじろう(@manjirooblog)です。

この記事では、今日までの邦ロック界に計り知れないほどの影響を与えてきた伝説のバンド“BOØWY(ボウイ)”解散の理由について、独自解説してみようと思います。

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BOØWY 解散についての独自解説

一般的にウワサされている”BOØWY解散の理由”

BOØWYの解散にまつわるエピソードで、一般的に言われている説は以下の4つだと思います。

  • はじめから”1位を獲得したら解散する”と決めていた?」説
  • 「最初に”解散”を切り出したのは布袋さん?」説
  • 「山下久美子 with 3/4BOØWY事件」説
  • 「解散の決め手は”氷室と布袋の不仲”が原因?」説

それでは、1つずつ丁寧に個人的な見解を述べていこうと思います。

“1位を獲得したら解散と決めていた”説は真実。証言も有り。

いきなり結論が出てしまいますが、「BOØWYは何故解散したのですか?」の問いに対する回答は「あらかじめ”1位を獲得したら解散する”とメンバー4人で話し合いが済んでいたから」になると思います。

このエピソードは、最近行われた映像作品「1224 THE ORIGINAL」の発売記念イベントで元ドラムの高橋まことさんの口から「(長野県のワシントンホテル上のラウンジにて)解散の2年前、1985年には”売れたら(1位を獲ったら)やめようぜ”と話し合いはしていた。」との証言がありました。

その後、1986年発売の5thアルバム「BEAT EMOTION」で宣言通りオリコンチャート1位を獲得した後にメンバーはオフ期間に入っており、その後の6thアルバム「PSYCHOPATH」以降は解散に向かって活動を進めていくことになります。(全レパートリーを演奏しようとしたコンセプトライブ”CASE OF BOØWY“などもその一環かと思われます。)

では、なぜ1985年頃に解散の話し合いが行われたのか?その答えは他の説によって明らかになってくると思います。

“解散を切り出したのは布袋さん”説も恐らく真実。

こちらの説も元メンバーの自伝等にも記載されており、恐らく本当だと思われます。そして個人的にも、布袋さんが1番”解散”を切り出しそうだなと思います。

ご存じの通り、BOØWYサウンドの司令塔は間違いなくギターの”布袋寅泰”さんです。数多くのBOØWY楽曲で“編曲”を手掛けていますし、リズム隊も含めてほぼ完成形と呼べるくらい作り込んだ”布袋さんボーカル”でのDEMO音源も多数残されています。さらに、BOØWY以外にも多数のアーティストさんのレコーディングにもスタジオミュージシャンとして参加されています。1985年に結婚した前妻となる”山下久美子”さんの作品もプロデュースされておりました。レコードマニアかつ斬新なギタリストである布袋さんは引っ張りダコだったことと思います。

そんな布袋さんはやはり、”海外への憧れ”が非常に強かったそうです。日本でBOØWY人気が高まるとともに海外への気持ちも強まっていったのではないかと思います。

“山下久美子 with 3/4BOØWY事件”でヒムロックが…

そんな状況の中、とある事件が起こります。僕は勝手にこれを”3/4BOØWY事件“と呼んでおりますが…(笑)

布袋さんがプロデュースを務める山下久美子さんのライブツアーに、”ギター:布袋さん自身”、”ベース:松井常松”、”ドラム:高橋まこと”をキャスティングしようとしたことがあったそうです。その誘いを受けたドラムのまこっちゃんが「4分の3がBOØWYメンバーは、ヒムロックを1人除け者にしているようで、さすがにマズい…」と感じ、ヒムロックに相談したという事件があったそうです。(そこでヒムロックが「それじゃ来月解散で」と言ったエピソードがあるらしいのですが、個人的にはそれは言っていたとしてもヒムロックのジョークなのではないかな?と思います。後日メンバー4人で話し合いも行ってますし、あの硬派なヒムロックが自身のバンド活動をそんな安直に決めるような人ではないと思いますし、ご本人曰く真面目に話されるとジョークで返したくなる性格だそうですので…(笑))

時系列は定かではありませんが、布袋さんがバンド外活動で多忙を極めている間、ちょうどこの頃に氷室さんは作曲や録音、編曲などのスタジオワークをご自身で熱心に勉強されていたそうです。

布袋さんの多彩な活動がBOØWYの楽曲に色とりどりの色彩をもたらしたことは間違いありませんが、BOØWYの解散にも貢献してしまっていることも皮肉ですね…

1985年の解散会議はこの時期に、このような経緯で行われたのではないかと推測されます。

でも、”氷室と布袋の不仲”説は認めたくありません!!

ここまで、巷で囁かれているウワサを補足的に説明しながら解説してきましたが、上記のような様々な原因が折り重なって、1987年12月24日渋谷公会堂での解散に至ったと思います。

でもここで最後に主張したいのが、私は氷室さんと布袋さんは”不仲”では無いと思いますBOØWYが再結成をしないのは、そもそも1988年の”LAST GIGS”が”早すぎる再結成”であり、以降も頑なに再結成をしないのは”ヒムロックのプライド”だと思います。たしかに布袋さんとの確執エピソードは多数ありますが、それはそれで布袋さんと不仲だからという訳ではなく、氷室さんご自身の中で「BOØWYは頂点に登りつめて解散した」と終止符が打たれているのだと思います。氷室さんソロでのインタビューでも「BOØWYは誰にも触らせたくない、自分でも触りたくない聖域」との発言がありましたしね。(BOØWYの楽曲を歌うことは、あくまでも氷室京介というソロアーティストが”楽曲をカバー”することであって、BOØWYに直接触れているわけではないと思います。)

数々の名曲を2人で手掛けてきた氷室京介/布袋寅泰の両名が、互いにいがみ合っているとはファンとしては思いたくもないし、そんな低次元な話でも無いと思います。

2016年5月23日”LAST GIGS”@東京ドーム、ヒムロックがライブ活動を引退する正に最後のライブの35曲目、トリプルアンコールのラストの1曲に、布袋さんとの共作である「B・BLUE」を選んだことは無意味ではないと思います。氷室さんからの”布袋さんへの最後のメッセージ”だったらファンとしては感無量ですね

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おわりに

以上、BOØWYの解散についてし独自解説をしてみました。

どんな解散理由であれ、BOØWYが残してくれた名曲達と素晴らしいライブバンドであった事実は揺るぎません。皆様も是非、BOØWYの音楽を聴いてみてくださいね。

長文にお付き合いくださり、ありがとうございました。

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